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ヴィガノ大司教のレポートが世にでるまで

2018年9月13日


ヴィガノ大司教のレポートが世に出るまでの経緯1

マカリック枢機卿

今年の夏、2018年6月20日、一人の高名な枢機卿が使徒座によって公職から解任された。それは、ニューヨークのローマカトリック大司教区の再調査委員会が、その枢機卿がニューヨークの司祭であったときに、聖パトリックカテドラルにおいて、1971年と1972年に、当時19歳の侍者に性的虐待を加えたとの訴えが「信用かつ実証」できるものであるとの結論を出したことによる。

その枢機卿の名は、9つ以上の大学から名誉博士号を授与された経歴をもつテオドール・エドガー・マカリック枢機卿である。(写真は、2008年、スイスのダボス世界経済ホーラムで語るマカリック枢機卿)

マカリック枢機卿の性的虐待の噂、被害訴えは少なくなく、ニューヨークタイムズ紙が入手した資料によると、最も早い時期の被害の訴えは、1994年に、一人の司祭が、マカリックが「不適切に」彼に触ったことを、ニュージャージ州のメタシェン教区のマカリックの後継司教であるエドワード・T・ヒューズ司教に訴えの手紙を書いている。それ以後、たとえばデヴィッド・ラムズィ神父は、2008年に、マカリックの性的虐待は何十年もの間広く知られている旨を、教皇ベネディクトⅩⅥ世に書簡で知らせている。マカリック枢機卿の性的虐待は多くの司祭、司教、枢機卿に知られていたのだ。

教皇フランシスコが世界家族会議開催のため、アイルランドを2018年8月25、26日に訪れた。その25日にカトリック教会を、世界を震撼させる一通のレポートが公表された。そのレポートは、教皇フランシスコを始め多くの枢機卿がマカリック枢機卿を庇(かば)ってきたことを実名を挙げて告発し、教皇フランシスコは、教皇ベネディクトⅩⅥ世がマカリック枢機卿に課した制裁を無視して彼を登用し続けてきたことを告発、それらの枢機卿や教皇フランシスコの辞任を求めている。この衝撃的告発レポートを公表したのは前アメリカ教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ(ビガーノ)大司教であった。

ここに、イタリアのブロガー、ジャーナリスト、作家のアルド・マリア・ヴァリ氏による、いかにしてヴィガノ大司教がその告発レポートを公表するに至ったかを記した報告書がある。それによれば、ヴィガノ大司教はすでに危険を感じて身を隠していることが知れる。この報告書でヴァリ氏は「(大司教は)既に飛行機の切符を買ってあると言う。彼は国を出るつもりだ。彼は行き先をおっしゃらなかった。私は大司教を捜すまい。彼の使い古した携帯電話の番号はもう使えない。私たちは最後のお別れの挨拶を交わす」と認(したた)めている。(このヴァリ氏による報告書は「ヴィガノ大司教のレポートが世に出るまでの経緯」として百千鳥にアップする予定。それはまるで、スパイ小説の雰囲気を醸し出している)

アイルランドからヴァチカンへの帰路、機内で教皇フランシスコは同乗の女性ジャーナリストから、前日(25日)に世界に向けて公表されたヴィガノ大司教のレポートについて聞かれた。 教皇フランシスコのそれに対する答えは「前代未聞」の答えだった。「あなたの仕事をしなさい」
教皇はヴィガノ大司教のレポートを読んだことを認めた上でその女性ジャーナリストに―「レポートを注意深く読み、あなた自身で判断しなさい。このことに関して私は何も言うつもりはありません…。そのレポート自体が語っていると思います。またあなたには、結論に達するだけのジャーナリストとして十分な能力が備わっていると私は思っています」(続く)(ポストマン)






2018年9月14日

ヴィガノ大司教のレポートが世に出るまでの経緯2

「ローマは信仰を失い、反キリストの座となるでしょう」(ラサレットの聖母 1846年9月19日)

ヴィガノ大司教

以下は、2018年8月28日にスティーブ・スコジェックによってO.P.Fcomに掲載された、イタリアのブロガー、ジャーナリスト、作家であるアルド・マリア・ヴァリ氏による報告書である。(写真はヴィガノ大司教)

 

☆☆☆



これはヴィガノ大司教がいかにしてそのレポートを私に託したか、そしてなぜ私がそれを公けにする決心をしたかの報告である。
アルド・マリア・ヴァリ


「博士、私はあなたに会う必要があります」

その声の調子は穏やかだったが、なにかを気遣う声だった。電話の相手は、前合衆国ローマ教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教だった。

私は驚きを隠さなかった。私たちは何回か公的集会で顔を合わしたことはあったが、とても互いに知り合いであるとは言えなかったからだ。

彼は、自分が私の熱心な読者の一人であり、私の勇気と、しばしばアイロニーを含んだ明快な表現を評価していると語った。私は謝意を伝え、尋ねた―「なぜ私に会いたいのですか」

大司教は、電話では喋れないと答えた。

「なるほど、ではお会いしましょう、どこがよろしいですか」

私は何の考えもなく単純に、私の事務所か、あるいは私の第二の事務所となっている通りの喫茶店ではどうかと提案した。

「いや、いや、だめです。できるだけヴァチカンから離れた、人目につかない場所がいいです」

もともと私は陰謀論者ではないが、大司教は非常に用心していることが分かった。

「分かりました、では拙宅ではどうでしょう。妻と子供がいますが」

「あなたの家なら申し分ありません」

「お迎えに行きましょうか」

「いや、いや、わたしの車で行きますよ」

そして彼は来た。(続く)(ポストマン)




2018年9月15日

ヴィガノ大司教のレポートが世に出るまでの経緯3(画像:夏の宵のローマ郊外)


夏の宵のローマ郊外

暖かな夏の宵、大司教が到着して、私は、記憶では私より年上の男とまみえる。彼は笑みを浮かべてはいるが、何か苦しみを抱えている様子が即座に見てとれる。彼は心に重荷を負っているのだ。

妻と子供たちを紹介し、大司教が食事を祝福した後、緊張を和らげるために、私たちは共通の出身地であるロンバルディア州について軽い冗談を飛ばし合う(大司教はヴァレーゼ、私の家はロー出身)。大司教は一分の遅れもなく約束の時間ピッタリに来られたが、ローマではこれは非常に稀なことだ。

それからヴィガノはすぐに語り始める。彼は教会を憂え、この時代の男女にイエズスの福音を広めるためには働かず、それどころか混乱をもたらし世間的論理に屈している者たちが教会の最高位にいることを懸念する。

それから彼は、ヴァチカン市国行政トップとしての国務長官、ナイジェリアと合衆国の教皇大使の長い経験について語る。彼は多くの人名を口にし、多くの状況について語る。ヴァチカン専門のジャーナリストとしての私でさえが、時々彼の話についてゆくのに困難を感じる。だが私は、彼は語る必要があるのだと理解し、彼の話を遮らない。

私の受けた印象では、彼は孤独な人間で、自分の身のまわりで起きることを眼にして悲しんではいるが憤慨はしていない。彼は、彼が語った人間たちのいづれに対してもひどい言葉は使わない。事実が自らを語る。時おり彼は笑みを浮かべて、私を見る―「私はどうすればいい。何か解決法はあるだろうか」とでも言いたげに。

彼は個人的には私を知らないが、とりわけ私が示す勇気と自由に敬意を抱くゆえに私に電話したのだという。彼は私のブログは、だれもオープンには口にしないが「聖なる宮殿」でも読まれ、評価されていると付け加える。

私が彼にヴァチカン行政の経験で何か聞かせてほしいと言うと、彼は規則を守らせ、口座を整理することで、いかにヴァチカンの金庫からの支出を抑えることに成功したかを語る。

私はコメントする―「では大司教閣下、その
清掃のあとには友人は一人もできなかったでしょうね」彼はまた微笑んで言う―「覚悟の上です。だがもし私がそれをしなかったならば、私は自分自身を恥じたでしょう」(続く)(ポストマン)



2018年9月16日


ヴィガノ大司教のレポートが世に出るまでの経緯4(画像:アルド・マリア・ヴァリ氏)

アルド・マリア・ヴァリ

彼は強い義務感のある人間だ。少なくとも私にはそう思える。数分後には私たちの間には通うものがあった。

私たちの小教区でカテキスタをする私の妻と私の娘たちは、その信用するに足るいくつもの話に黙って耳をかたむける。私はいつも半分冗談で、良きカトリック教徒は、ヒエラルキーの上層部でどのように物事が決められてゆくかを知るべきではないと言っているのだが、この夜の会話はまさにそれを確認するものだ。それでも私は、大司教をわが家に招待したことを一瞬たりとも後悔しない。この人間、この年老いた教会の僕(しもべ)の悲しみに彩られた証言は、なにか重要なこと―苦しみや混乱のさなかにあってさえ私たちの信仰生活を助けてくれる何かを告げていると私は信じている。

大司教は言う―「私は78歳です、人生の黄昏(たそがれ)を迎えている。人間の裁きに興味はありません。重要な裁きは善なる神の裁きだけです。私がキリストの教会のためになしたことを神はお尋ねになるでしょう。私は、最後まで教会を擁護し、教会に仕えたと神に答えることができるよう願っています」

こうして夜は更けていった。私たち家族は、大司教は皿に何の食べ物があったかさえ気づいていなかったのではないかと思っている。彼は一口食べ、また次の一口を食べる間、決して喋ることを止めなかった。

彼の車まで彼を見送りながら、私は自問した―「しかし、結局なぜ彼は私に会いたいと思ったのだろう」彼への敬意から、また自信のなさから、私は彼に尋ねることはしなかった。しかし、別れの挨拶をする前に彼は言った―「ありがとうございます。私たちはまた会います。私に電話はしないでください。こちらから連絡します」そして彼は車に乗り込んだ。(続く)(ポストマン)



2018年9月17日


ヴィガノ大司教のレポートが世に出るまでの経緯5(画像:闇に包まれたヴァチカン)

闇に包まれたヴァチカン

私はジャーナリストだ、このような状況での最初の衝動はコンピューターに向い、彼が語ったことのすべてを書きとめることだ。だが私はそうしない。大司教は、私が何を書くことも禁じなかった。実際、その件に関しては何もおっしゃらなかった。しかし、彼が私に何かを打ち明けたということは全くない。そういうことから私は、私との面会は一種のテストであったと理解している。大司教は、私が信用できるかどうか会ってみたいと思ったのだ。

一カ月以上がたち、彼は再び私に電話をしてくる。問題は先回と同様だった。「お会いできますか」

「はい、もちろんです。また私の家に来られますか」 今回は、もうひとりの私の娘、長女とその二人の息子―私の孫たちが同席するがと彼に予告した。

「問題ありません」ヴィガノは言う。「大事なことは、ある時点で二人きりで話せる場所があることです」

そういう訳で前合衆国教皇大使はわが家に戻ってきた。彼は今回、幾分リラックスしているように見えた。彼は、この多少がさつな大家族と一緒にいて楽しんでいる様子だった。ある時点で、彼の携帯電話が鳴った。合衆国からのビデオ通話だった。それは彼の甥だった―「おお、ごめんなさい、叔父さん。お邪魔するつもりはなかったのですが!」ヴィガノは楽しそうに笑みを浮かべながら、彼の携帯で、孫たちを含めたテーブルに就いている全員を映して見せた。「楽しそうなお仲間たちですね!」と彼の甥は言った。それから大司教は私に向けて語りかけた―「この機会を借りて私があなたをどんなに尊敬しているか言いたいと思います」

緊張が解ける。三歳になる孫息子は大司教のまわりを騒がしく動き回り、彼をカルロ・マリアと呼ぶ。ヴィガノは楽しそうにしている、心配事を束の間忘れているようだ。

だが、食事を祝福した後、彼は再び氾濫した川さながらに語り始める。非常に多くの話、非常に多くの状況、非常に多くの人名。しかし今回は、彼のアメリカ滞在中の話により焦点が当てられる。彼は、重大な虐待の罪を犯した前枢機卿、マカリックのことに触れ、合衆国とヴァチカンではそのことを長い間、何年にもわたって誰もが知っていたことを明らかにする。だが皆、それを隠ぺいしてきた。

私は尋ねる―「誰もが、ですか」

頷きながら大司教は、そうです、本当に誰もがです、と答える。

私は他の質問をしたかったが、彼の話の日付、メモ、面会、人名の流れを遮ってまで自分の質問をすることは容易ではなかった。

問題の核心は、ヴィガノによれば、教皇フランシスコも知っていたということだ。しかも教皇フランシスコは、ベネディクトⅩⅥ世によってマカリックに課せられた禁制を笑いとばし、マカリックが何の支障もなく活動することを許した。フランシスコは少なくとも2013年の3月には知っていた、その時、差し向かいでの面会のあいだに、教皇の質問に答えて、大司教は、ヴァチカンにはマカリックに関する大量の文書があるのでそれを読む必要がある旨、教皇に伝えていた。(続く)(ポストマン)



2018年9月18日


ヴィガノ大司教のレポートが世に出るまでの経緯6(画像:イタリア、イギリス、アメリカ、カナダ)

イタリア、イギリス、アメリカ、カナダ

前回私たちが会ったこととは別に、ペンシルベニア州の大陪審の調査から明らかになった案件に新たな進展があった。ヴィガノは、大陪審の結論の醸し出しているイメージは正しいと語った。性的虐待は、余人の想像をはるかに越えた一つの広範な事象を生み出しており、この件では圧倒的多数が十代の若い男性をねらった同性愛志向の司祭たちが関係しており、幼児性愛の案件とするのは正しくはない。敢えていうならエフェボフェリア(ephebophelia:成人男性による、思春期の男女に向かう性的嗜好のこと―訳注 )というのが正しい、と大司教は言う。しかし肝心な点は、共謀、沈黙、隠ぺい、そして互恵の蜘蛛の巣があまりにも広く張り巡らされてしまったことで、それを言い表す言葉がなく、アメリカとヴァチカン双方で、すべての高位聖職者たちを巻き込んでしまったという点だ。

私たちは茫然として、ふたたび腰を下ろした。職業柄、私たちはこの案件が扱う内容のような事柄に触れることはあるが、母なる教会の胎から生まれ育ったカトリック信徒としては、このようなことを受け入れることは困難だ。

私の質問は無邪気極まりないものだ―「どうしてでしょう」

大司教の答は血を凍らせる―「それは、パウロⅥ世の語った、サタンの煙が神の家に入り込むその隙間が、今や大きな亀裂となったからです。デヴィルは休まずに働いています。そのことを認めないか、あるいはそのことから顔を逸らすことは大きな罪です」

電話で大司教は二人きりで話したいとおっしゃったのだが、私は、私たちはまだ面と向って一対一で話していないことに気が付く。彼はずっと家族のいる前で語ってきたのだ。私は彼に、妻や娘や孫たちのいない別の部屋へ移動するかどうかお聞きする。だが、彼はいや、ここでいいという。彼は、ありのままの私たち家族に満足しているように思われた。私たちは老人が遠い国の話を語るのを聞いている気がしていて、どこかで、これはみな作り話だと言ってほしいと思っている。しかし、彼が話している世界は私たちの世界なのだ。彼は私たちの教会のことを語っている。彼は私たちの高位司牧者たちのことを語っている。

唯一の基本的疑問を拭い去れない―なぜ大司教は私たち家族にこれらの事を話すのか。彼は私に何をしてほしいのか。

今回は私は彼に尋ねた。その答は、彼は、2013年3月に、彼、ヴィガノが教皇に会ってマカリックに関する書類についてフランシスコに知らせたことを初めとする私たちに語った事柄すべての状況を順序立ててつづったレポート(原文ではmemoir-回顧録)を書いた、というものだ。

「それでですね」

「それでですね」と彼は私に言う。「もしよろしければ、教皇が知っていて何もしなかったことを示す私のレポートをあなたにお渡ししたいのです。そして、それを読んだ上で、広く読まれているあなたのブログにそれを発表するかどうかを決めてほしい。私はこのことが知られることを願っています。私はこのことを軽々に行うのではなく、変化、真の回心をもたらすための残された唯一の方法だと思っているのです」

「わかりました。それが渡されるのは私だけですか」

「いいえ。私はもう一人のイタリアのブロガー、イギリスで一人、アメリカで一人、カナダで一人のブロガーに渡すつもりです。翻訳は、英語とスペイン語に訳されます」(続く)(ポストマン)






CENTER:2018年9月20日


ヴィガノ大司教のレポートが世に出るまでの経緯7(画像:サングラスに野球帽)

サングラスに野球帽

今回もまた大司教は私に口止めをしない。彼は私を信用していると思う。結果、彼の求めにより、私たちはもう一度会い、彼はレポートを私に渡すこととなる。

数日後、彼から連絡が来て私たちは日時、場所を決める。彼との約束で、彼と会った場所は言えない。

大司教は、サングラスに野球帽をかぶって現れる。彼は、私が最初にそのレポートを読むときは彼の前で、彼の目の前で読むよう私に願う。彼は言う―「もし納得できないところがあれば、即座に二人で議論できますから」

私は全編を読む。11ページある。彼は私の読む速さに驚き、私を見つめて言う―「どうです」

私は言うー「強烈です。詳細です。よく書けています。ドラマティックです」

彼は尋ねる―「公表しますか」

「司教様、これが爆弾だということを認識していらっしゃいますか。私たちはどうすべきでしょうか」

「あなたにお任せします。考えてください」

「司教様、人々は何と言うでしょうか。あなたは復讐したいのだ、行政やその他のことから解雇されたことに怒り狂っているのだと。ヴァチカン告発文書をリークした卑劣漢だと。皆が言うでしょう、あなたは最悪の保守主義者である上に情緒不安定だと」

「わかっています、わかっています。しかし、それは私にとって重要なことではありません。私にとって重要なことは、真実を水面に浮かび上がらせることです、それは浄化が始まるためにです。ここまで来たら、ほかに道はありません。」

私に迷いはなかった。心の底では私はすでに公表することを決めていた、私はこの人間を信用できると思うからだ。だが私は自問する―「このことは単純な人たちにどんな影響を与えるだろうか。よきカトリック信徒たちに。良い影響よりも悪い影響を与える危険はないだろうか」

私は知らずにそれを声を出して尋ねていた。大司教は答える―「よく考えてください。冷静に見極めてください」私たちは握手を交わす。彼はサングラスを外し、私たちは互いに見つめ合う。

彼が私に公表を強いないという事実、私に公表してほしいという切望を表に出さないという事実が、いっそう私に彼を信用させる。これは策略だろうか。彼は私を操っているのだろうか。(次回最終回に続く)[ポストマン)




2018年9月22日


ヴィガノ大司教のレポートが世に出るまでの経緯8(最終回)(画像:「Xデー」)

Ⅹデー

家で私はセレナと娘たちと話し合う。私にとって彼女たちのアドヴァイスはいつも重要である。私はどうすればいい。

自問の日々だ。私はレポートを読み返す。それは詳細に渡っている、だがそれは出来事をヴィガノの目で見たものだ。読者はそれを理解すると思う。私は大司教の目で見たものを提供しよう、その後で、だれかが反対の意見を言うなら、その人は別の見方を示すだろう。

妻は私に思い起こさせる―「でも、もしあなたがそれを公表したら、それを公表したという事実によって人はあなたが彼の側の人間だと思うでしょうね。それでもいいの」

いいとも。人は私が偏見を抱いていると決めつけるだろうか。忍耐だ。結局のところ、私は偏見をもっているのだ。私がレポーターのときには、私はニュースをレポートし、それで終わりだ。できるだけ無感覚であろうと努める。しかし私のブログでは、私はすでに明確な立場をとっており、近年、教会が示してきたある変化に対して私がどう考えているかを読者はよく知っている。もし公表後にだれかが、ヴィガノが嘘をついていると、あるいは事実を見る彼の目は不完全もしくは不正確であるということを証明する書類を私に提供するなら、私は喜んでそれをもまた公表するだろう。

私は大司教に電話する。私は彼に私の決心を伝える。公表する日にち、時間について私たちは一致する。彼は、同日、同じ時刻に他のブロガーたちも公表するという。彼は8月26日の日曜日に決めた(実際に公表されたのは25日―訳注)、なぜなら、ダブリンから帰る教皇が、機内に同乗するジャーナリストの質問に答える形でレポートに対応する機会があるからだ。

彼は、日刊紙「ラ・ヴェリタ・」がレポートを公表するリストに加えられたことを私に知らせる。彼は既に飛行機の切符を買ってあると言う。彼は国を出るつもりだ。彼は行き先をおっしゃらなかった。私は大司教を捜すまい。彼の使い古した携帯電話の番号はもう使えない。私たちは最後のお別れの挨拶を交わす。

これが事の顛末だ。私の中の疑いが晴れたわけではない。私は良いことをしたのだろうか。悪いことをしたのだろうか。私はそのことを自問し続ける。だが私の心は穏やかだ。私は、ヴィガノ大司教がレポートの終わりに書いた言葉を読み返した―「どれほど教皇がご自分のために祈ってくれるよう私たちに願ってきたかを思い出しながら、教会と教皇のために皆で祈りましょう。母なる教会への信仰を新たにしましょう、一にして聖なるカトリックの、使徒継承の教会を私は信じます!キリストは決してこの教会をお見捨てになることはありません!キリストは御血によって教会を生み出し、ご自身の霊によって絶えず教会に息吹をお与えになられます!教会の母なるマリア、私たちのために祈り給え!乙女なる元后、栄光の王の御母マリア、私たちのために祈り給え!」

Ald Maria Valli



























































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