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栗さんは男性です。

2017年11月1日''



ある思い出

人は聖なる良い司祭に図らずも出会えた、と思ったときには、安堵感と未来に通じる青空の両方ともを両腕でだきしめられた、と思うものだ。ということは、自分は日ごろからその瞬間を夢見て小教区を巡り歩いているというわけだ。

一人の司祭に、木枯らしの吹きすさぶある冬の朝、遭遇した。

その司祭は説教の面白く、そしてためになるなあと聞いた後に余韻の様に感じる、話術に長けた司祭だった。聖俗織り交ぜて、軽妙洒脱に次々と場面を変えてゆく語り口には、聞く者を思わず引き込んでゆく計算されたテクニックがある。誠実と愚直さの杭が背中から首筋、後頭部に掛けて一本通っている。だから、その司祭の歩きぶりは、誠実さと頑固さの紙一重の雰囲気をいつも漂わせる。

その司祭が聖なる司祭だと一部の人たちは口にしてはばからない。中には、あの司祭は聖人の域に達しているという信徒さえいた。

いつしか自分はその司祭の朝ミサの準備をするようになっていた、準備といっても、司祭が香部屋に来る前に、水とぶどう酒と手ふきをガラスの楕円の皿に載せて、祭壇脇の台に置くだけのことだ。

ある待降節のことだった、聖堂内に飾ったクリスマスの飾り、羊飼いと、東方の博士たち、聖母と聖ヨゼフなどの小さなご像が飾られていた。

ところがある日、その飾りの中のあるものが無くなっていた。数日たっても戻らない。朝ミサに与る数名の人々も、どうしたのだろう、誰かが盗んだのだなどと囁き合った。

そんな中のある朝、いつもの様に香部屋でミサのぶどう酒を準備していると、その司祭が入ってきていきなり私に向って「―を持っていっただろう」と言った。一瞬の間に、私はそのあり得ない司祭の言葉をはぐらからせるべく聞き違いのふりをして水とぶどう酒、手ふきを載せたガラス皿を両手で持って香部屋を出た。そのとき自分が司祭に何と答えて聞き違いのふりをしたのかは覚えていない。すると司祭も後から香部屋からでてきて、数人の信徒がミサを待つ聖堂では敬語となり「ここにあった物が無くなっているのですよ」と私に言ったのだった。

これは邪推の罪ではないのか、と私は家に帰ってから思った。その時以来、私はその司祭が聖なる司祭だとは思わなくなった。

数年たってその司祭が亡くなった。その時ふと考えた、あれは自分が盗んだのだろう、という意味で司祭は言ったのではなく、「誰かが持って行っただろう」という意味で私に同調を求める言葉ではなかったのかと。誰かがという部分が聞き取れなかったのだと。

真相は分からない。しかし、自分にとっては戦慄を覚える体験だった。(栗)


感想
「11月1日 栗さん。私も良い司祭に出会えたときにはうれしくてたまりません。飛び跳ねたくなります。」(さつき)2017年11月4日
















































































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