世界統一宗教に向けての署名

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世界統一宗教に向けての署名

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世界統一宗教へ向けての署名

オリヴァ―・メルニック

トーマス・モアの人生をもとにした『わが命つきるとも(A Man for All Seasons)』の中で、主人公は、彼のライヴァルを含む多くの同世代の人々の妬みを買う節操のある人間として描かれている。かつてトーマス・モアはそのような言葉で描かれたことがある。

「モアは天使の知力とまれに見る学識を備えている人間だ。私は彼のような人間を知らない。彼のような親切さ、謙遜さ、愛想を備えた人間がどこにいるだろう。それでいて時には、陽気に気晴らしに興じる人、そして時には重く悲しみに沈む人ともなる。どのような状況でも頼りになる人間である」

今日、世界中の多くの人間が現在の教皇をどのような状況でも頼りになる人間だと見ている、しかしその評価は正しく、また聖書にかなっているだろうか。

フランシスコ教皇は、アル‐タイブ師(Al Azhar Grand Imam Sheikh Ahmed al- Tayeb -かつて「世界中で最も影響力のあるイスラム教徒」と名づけられた)と共に、「世界平和と共存のための人類兄弟愛の文書」という名の文書に署名した。エキュメニカルの観点から言えば、文書は人類にとって夢の実現であり、多くの人がこれを「歴史的進展」と表現した。私はあえて「聖書的進展」であるに違いないと言いたいが、それは必ずしも同じ理由からではない。

文書は神について‐「彼はその神なる英知より我々を形成し、護るべきものとしてわれわれに生命の賜をお与えになられた。生命は、何人(なんぴと)も勝手に取り上げたり、脅かしたり、操作したりする権利のない賜である。実際、だれもが、その初めから自然的終焉(しゅうえん)までこの賜物を護らなければならない。したがって我々は、大量殺戮、テロ行為、強制移動、堕胎、安楽死など、生命を脅かすあらゆる実践に対して非難する」と言う。

教皇は、神はすべての人間を等しく創造された(私が教皇に賛成する聖書的見解であるが)ゆえ、アル‐タイブ師が教皇の見解に賛成すると考えているかもしれないが、この宗教的指導者が文書に署名したことをもってして、彼がその文書を支持しているとは限らない。

さらに文書は、信仰の自由に触れて「自由はすべての人間の権利である、各個人は、信仰、思想、表現と行動の自由を享受する。宗教、肌の色、性、人種、言語の多元性、相違は、人間を創造された神の英知の所産である。この神の英知は、信仰の自由、多様性の自由への権利を生むその源である。従がって、人びとがある特定の宗教や、他の人々が受け入れない文化的生活様式を課すこと同様、文化を受け入れるよう強制されているという実情は拒否されねばならない」

ここに教皇は、「宗教、肌の色、性、人種、言語の多元性、相違は、人間を創造された神の英知の所産である」ゆえ、すべての人間がその信仰にかかわらず互いに尊敬しあうことを求める他宗教共存の立場をとっていることが分かる。ローマに通じる地方道路は今やそれだけでは物足らず、すべての道は神へと通じる必要があるのだ。すなわち、ローマカトリック教とイスラム教の同じ神に!

事実として、アル‐タイブ師は、共同署名した文書に正反対の立場をとっていることが記録に残されている。最近彼は言った―「イスラム教を学んだ者たち(学者)や四つの法学校の宗教的指導者たちは、背教を一つの罪と考えており、背教者は自身の背教を断念するか、殺されるかのどちらかであるということに同意している」さらに、2013年にエジプトのテレビのインタビューで、イスラム教徒は「グローバル・シオニズムとユダヤ教から苦しめられている」また「(イスラム教)信徒に対する最も強い敵意を抱く者はユダヤ人と多神教主義者にいる」と語った。このようなことを言う人間に、「人類の友愛と世界平和に関する文書」の署名者となる資格はないというべきである。

さらに言えば、彼は、イスラム国(ISIS)のメムバーは真のイスラム教徒ではないということを拒みさえした。しかし、この件に関しては、私は彼に同意する、仮にもイスラム教徒であるならば、文字通りコーランの言葉に従うなら、ユダヤ教徒やキリスト教徒同様、異教徒や背教者を殺すしかないということになる。イスラム教徒の大半は、コーランの言葉に必ずしも良く通じている必要のない、名ばかりのイスラム教徒であり、結果として、彼らは守りたい言葉だけを選ぶ。このことは差別なくあらゆる宗教に言えることだ。

そうであるならば、私は新しい文書が聖書的進展とどうして言えよう。なぜなら、到来する世界統一秩序の観点から言えば、このことは聖書の預言に100パーセント一致するからである。世界統一政府は日々、実現しつつある 、そしてそれは疑いもなく世界統一宗教を含んでいる。(『黙示録』13章11-18) 

教皇は、願望的考え、他宗教共存、宗教のポストモダン的考えにより盲目になっているに違いない。近未来は全地球的にイスラム支配下の文明(dhimmitude-造語。イスラム支配下における他の宗教者のつくりだす文明―訳注)となるとも思えるが、多くの者にとって時代の終わりはさらに悲劇的なものとなるだろう。道は二つしかない。私たちはこの世の王子(悪魔)を崇拝して、最後には彼と共に火の海(『黙示録』20章10)に投げ込まれるか、あるいはアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨシュア、モーゼの神を崇拝し、神と共に永遠を過ごすかのどちらかである。教皇といえどもその究極の選択を免除されることはない。同時に教皇には、何十億もの人間を真の神へと導く責任がある。

おそらく教皇にとって今はそのGPS(※)をリセットする時であるに違いない。


※ 本来GPSとはGglobal positioning system (全地球的測位システム)の略だが、作者はここでは God positioning system(神的測位システム)と洒落ている。
(2019年2月24日)






















































































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