とびいり
とびいり
とびいりさんは男性です
2017年10月1日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
・罪とは何か?
罪とは、わるいことと知りながら自由意志を持って神のおきてにそむくことである。
・大罪とは、何か?
大罪とは、重大な事柄について、はっきり意識し、完全に承諾して神のおきてに背くことである。(とびいり)
2017年10月2日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
・何事よりも大罪をさけなければならないのは、なぜか?
それは大罪が、
a,神に対するはなはだしい忘恩とぶじょくであり、
b、人間にとって、最大の不幸だからである。(とびいり)
2017年10月3日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
・大罪が神への最大のぶじょくであるというのは、なぜか?
それは、
a その罪が最愛の父にして私たちの主、つくり主なる神へのけいべつであり、
b 救い主なるイエズス・キリストを大いにはずかしめることであり、
c さらに私たちの唯一のまことの友である聖霊を大罪をもって、私たちの心のなかから追い出すことになるからである。
「堕落したものは、みずからの神の子を十字架にふたたびくぎづける」。(ヘブライ6・6)
「あなたたちが神の聖殿であり、神の霊がその中に住んでおられることを、あなたたちは知らないのか?」(コリント前3・16)。(とびいり)
2017年10月6日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
・大罪が人間にとって最大の不幸であるというのは、なぜか?
それは、大罪が
a 成聖の恵みと神との友情、天国へ行くための功徳をうしなわせ、
b 心の平和をなくさせ、良心の悩みを生じさせ、物質的な罰を招かせ、ついには地獄の罰にいたらせるからである。
わずか一つの大罪であっても、恐ろしい結果を招くということを、天使たちと人祖の罪は明白に教えている。
罪を毒へびのように避けよ。快楽ははかなく、罰は永遠である。
(とびいり)
2017年10月9日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
・大罪をさけるためには、どのようにしなければならないか?
それは、
a できる限り小罪をさけること、
b 神のみまえにあること、守護の天使が私たちのそばにいることなどを、しばしば考えること
c 注意ぶかく罪の機会をさけること、
d いざないにあうとき、ただちに祈りをもって心を神に上げ、勇敢にいざないに抵抗すること、
e とくに怠惰をさけること、
f よろこびをもって主に仕え、落胆と失望におちいらないこと、
g 大罪を犯すよりは、むしろ死をえらぶという確固たる決意を持つこと、などである。
これらの手段が習慣となるためには、忍耐と根気をもって実行することが必要である。もしそれを怠るようなことがあれば、それは大罪を心からおそれず、大罪をさけようとする意志の十分にないことを意味する。修徳においてかなり進歩した人であっても、大罪に陥ることがありうる。もし取るべき手段と武器を使わないとすれば、そのたどるべき道は、聖ペテロのおちどがはっきり示しているところである。
罪をさけるためのもっとも効果のある方策は、熱心な絶えまない祈り、ぎせいの心、そしてしばしばふさわしく秘跡にあずかることをもってつちかわれる精神の熱意にある。
(とびいり)
2017年10月15日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
・霊的聖体拝領はどのようにするのか?
それは、
a じっさいに拝領する時と同様に短い準備をもって、
b イエズスを私たちの心の中に招き、
c 私達の心にじっさいにおいでになったかのように、かれを礼拝し、愛し、感謝して私たちの祈りをささげることによっておこなう。
霊的聖体拝領はどこでも、いつでもおこなうことができる。そしてしばしばおこなわれる霊的聖体拝領はじっさいの拝領のもっとも適当な準備である。
霊的聖体拝領は、とくに、
a じっさいに拝領できない日に、
b 聖体訪問のときに、
c 特別糾明の後におこなうのがよい。
d また望みがあれば、いつでもすることができる。
(とびいり)
参考:霊的聖体拝領の祈り
イエズス・キリスト、われは主(しゅ)が至聖(しせい)なる聖体(せいたい)の秘蹟(ひせき)のうちにましますことを固(かた)く信(しん)じ、万事(ばんじ)に超(こ)えて主を愛し、主を受(う)け奉(たてまつ)らんことを望む。されど今聖体を拝領(はいりょう)すること能(あた)わざれば、霊的(れいてき)にわが心に降(くだ)り給(たま)え。―――主よ、われ主を受け奉(たてまつ)りし如(ごと)く主に寄(よ)りすがりて、わが身を全(まった)く主に一致せしめ奉る。願わくは主を離(はな)るるを許さず、悪魔の罠(わな)より救い給え。わが心に主の愛の火を点(てん)じ、永遠に主の御(おん)ために燃(も)ゆるを得(え)しめ給え。アーメン。
2017年10月18日''
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
・聖体拝領のとき、拝領するものはなにか?
それは、魂の糧としてのまことの人、まことの神であるイエズス・キリストである。
もっともすぐれた秘跡である。なぜなら聖体を拝領することによって、みめぐみを受けるのみではなく、イエズス・キリストご自身をいただくことだからである。
(とびいり)
2017年10月19日''
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
・聖体拝領の効果は、なにか?
聖体拝領はすべてのめぐみの源であるイエズス・キリストとの一致であり、特に次の効果をもたらすものである。
a 魂の超自然的生活を増進させ、
b 小罪をきよめ、大罪を遠ざけ、
c 悪への傾きを弱め、善への勇気とよろこびを与え、
d そして永遠の幸福と栄えある復活の保証となることである。
したがって聖体拝領は、完徳に達するために欠くことのできないものである。
(とびいり)
2017年10月20日''
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
・毎日聖体を拝領できるのは、どのような人か?
a 大罪のない人、
b 正しい意向を持っている人である。
聖なる教会、すなわちイエズス・キリストご自身が、信者のしばしばの聖体拝領、できれば毎日の拝領を望んでいる。初代教会ではそうであった。
大罪を犯した人は、聖体を拝領する前に、告白しなければならない。痛悔だけではふじゅうぶんである。大罪であったかどうか疑わしいときは、完全な痛悔の心を起こしてから聖体を拝領することができる。それがしばしば起こるようであれば、聴罪司祭の意見を求めた方が良い。(続く)
(とびいり)
2017年10月21日''
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
(続き)小罪[たとえば祈りの中に意識的に心を散らすこと、不忍耐、愛徳に背くこと等]は、聖体拝領の妨げとはならないので、そのことに由って聖体から遠ざかるようなことがあってはならない。しかし小罪は秘跡の効果を弱めるので、真心から痛悔の心をおこし、信頼して聖体を拝領するようにしたい。
正しい意向というのは、罪をさけるための力をえるためとか、みあるじの光栄のためなどとかのように、超自然的目的にもとづいて聖体を拝領することである。それで習慣とか、見えとか、そうした理由のために聖体を拝領するのは正しい意向であるということはできない。
(とびいり)
感想
「10月21日、とびいりさん。聖体拝領について、大切なことを投稿してくださりありがとうございます。私もこの本を持っていますが、再確認する機会をいただいています。(あお)
2017年10月22日
2017年10月23日''
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
(続き)聖体拝領ができているというのは、どんなときか?
愛をもって次のようなことがらを思い起こすとき、適当な準備ができていると言える。
a おいでになるおん者は、誰か?―イエズス・キリスト、無限である神、天地のつくり主、私たちの救い主、―私達のさばき手となられるおかた!…信仰と礼拝。
b 誰のところにおいでになられるのか?―たびたび大罪を持ってみ旨に逆らった、貧しくいやしい私たちの心に!…謙遜と痛悔。
c なぜおいでになるのか?―憐みにあふれたもうて私の心を天のたまもので満たすために、親密に私と一致するために!・・・希望、愛、熱烈な願い。(続く)(とびいり)
2017年10月28日''
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
(続き)準備が真面目なものであるだけ聖体を拝領することによって受ける恵みは大きいのである。聖体拝領についても黙想に関することと同じことがいえる。すなわち自然に思うように心を天に上げて祈ることができない時には、良書を利用することである。これは、修得における初歩の段階の人、あるいは霊的かわきの状態にいる人にとくにすすめられることである。(続く)(とびいり)
2017年10月28日''
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
(続き)準備が真面目なものであるだけ聖体を拝領することによって受ける恵みは大きいのである。聖体拝領についても黙想に関することと同じことがいえる。すなわち自然に思うように心を天に上げて祈ることができない時には、良書を利用することである。これは、修徳における初歩の段階の人、あるいは霊的かわきの状態にいる人にとくにすすめられることである。(続く)(とびいり)
2017年10月30日''
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
(続き)聖体を拝領したのち、なにをしなければならないか?
しばらくのあいだ祈り、礼拝し、イエズスと浸しく語らい、かれに感謝し、自分を彼にささげ、また自分と他人のために、かれのめぐみをこい願うのである。(続く)(とびいり)
2017年11月6日''
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
(続き)感謝は大体15分ぐらいでよい。イエズスがその神性をもってじさいに私たちの心に宿られるそのしゅん間は、人生のもっともと音い、最も幸福なときなのである。したがって慎みと沈黙の中にその聖なる時間を過ごさなければならない。天からの賓客は、それを求められ、また私たちの利益もそれを要求するのである。多忙であるからといってこの時間を省略するようなことはこのましくない。むしろ仕事をへらすか予定を変更したほうがよい。(続く)(とびいり)
2017年12月2日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
(続き)よい聖体拝領であるためには、感情的によろこびを感じないことは、なんらさしつかえない。
無意識のうちに心をちらし、神への強い愛情をいだくことができなくとも、その日の最大の忠実さをもって、神につかえたいという堅固な決心のうちに聖体拝領へ立ちあがるのであれば、それは立派な聖体拝領である。(続く)(とびいり)
2017年12月24日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
(続き)聖体拝領のたびごとにいろいろの全体的つぐのいの宥め (免償)がえられる。これらのなだめをえるための祈りをできるだけとなえるようにすることは、よいことである。
a つぐのいのなだめの付されている祈りは美しいものであるが、同時に、私たちが願うべきたいせつな内容を含んでいる。
b 教皇の意向にしたがって唱えるべき祈りは、聖なる教会の必要とする願いが表されているので、神のもっともおよろこびになるものである。
c またそれらの祈りをもって浄めの場(煉獄)の霊魂を助けることができる。かれらも私たちを記憶することであろう。
聖体を拝領した日は、とくに慎み深くすごしたい。また一日中感謝の心をもちつづけ、さらに翌日の聖体拝領のために準備をするように努めたい。こうして聖体拝領は、私たちの生活の中心となる。)(とびいり)
2018年1月6日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
1 日常の行いの意味とその重大さとについて
① 日常の行いとは、何か?
「日常の行い」ということばをもって、キリスト信者はその身分に課せられた義務を果たすべく日課にしたがって毎日をおくることを意味する。
日常のおこないは、そのものとして善であるもの(たとえば祈ること、罪のゆるしの秘蹟によること、仕事にはげむこと)、そのものとしては善でもなかれば悪でもないおこない(たとえば飲食、睡眠)の二つにわけられる。(とびいり)
2018年1月7日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
(つづき)2 キリスト信者ができるだけ完全に日常のおこいを果たさなければならないのは、なぜか?
a 信者が目指さなければならない完徳の義務は、日常生活のうちにあり、
b 神がこれをおよろこびになり、
c これに他の多くの功徳が伴うからである。
自分の職務をよろこんで責任をもって果たすことは、キリスト信者の特徴でなければならない。(つづく)(とびいり)
2018年1月8日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
(つづき)
3 もっとも小さな、とるに足りないおこないであっても、注意深くおこなわなければならないのは、なぜか?
それは、
a 神のみまえにおいてはものごとの大小はなく、
b 目だたないかくれたおこないに、ゆたかな恵みの伴うことが多いからである。
「よしよし、善良な忠義なしもべだ、あなたは、わずかなものに忠実であったから、私はあなたにおおくのものをまかせよう。あなたの主人のよろこびに加われ!」(マテオ25・23)
「些細なことはつねに些細だが、それに忠実であることは、偉大である」(聖ヒエロニムス)
聖人たちは、もっとも些細な事柄にも忠実であったので、完徳に達することができた。(つづく)(とびいり)
2018年1月18日
『修徳生活入門』 S・デランジェラ編より
(つづき)
4. 日常のおこないに忠実であるために、とくにおぼえておかなければならないことは、なにか?
それは、
a 好きなことのために、課せられた義務を怠るようなことがあってはならないこと、
b 完徳にすすむのは、困難なことにあるのではないこと、
c 若い人は、とくに日常の努めに忠実であるよう努めなければならないこと、などである。(つづく)(とびいり)
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